いつも自分を大きく見せたがる人
いつも、何かと自分を大きく見せたがる人がいます。
たとえば、聞かれもしないのに、自分のことばかりを話したり、そして、その内容のほとんどは自慢話。
たとえば、最近家を建てた友人がいて、その人から「〇〇さんはセンスがいいから、お家の収納について相談にのって」と頼まれてしまったとか。
仕事を辞めようと思ったら皆に引き留められて困っているとか。
仕事が出来る自分がいつも、使えない部下や上司をフォローしているから職場がなんとか回っているとか。
その人にかかれば、まるで地球はその人を中心に回っているが如く、自分やそのパートナー、親や子供、友人、知り合いに至るまで、その人を輝かせるために存在しているのでは?と言わんばかり様相を呈しています。
自慢話はもううんざりです
自慢話って、毎回、聞いているほうは本当にうんざりしてしまうもの。
たとえばそこに美しい薔薇が咲いていたとして、最初はただ単純に『美しい』と思えたとしても、もしその花を「毎日愛でよ」などと誰かに言われたとしたらどう思いますか?
もしわたしがそんなことを言われたらさっさとその場を立ち去りたくなります。しかしそういう人は、すぐに自分の自慢話に引き戻してくるので、お世辞でも「すごいね。」といわざるを得なくなります。
このように、自分を大きく見せたがる自己愛性人格障害の人は、誇大な自己イメージを持っています。
そして、自分は普通とは違う、特別な存在だと思い込んでいます。
そんな特別な存在である自分は、やはり特別な人からしか理解されないと思う一方で、周囲からの賞賛を常に求めていて、それが得られないと憤りを隠そうともしません。
また共感する力に欠け、目的のために他者を利用することもあり、自分のことだけにしか関心がないので、優秀な人を認めることができず、激しく嫉妬したり、逆に尊大に振舞ったりします。
とくにブログを始めとするSNSの世界ではそういった類いの人を多く見かけます。どうしてそんな人たちばかりが目につくのでしょう。
ありのままの自分を愛せない
おそらくそういう人たちは、ありのままの自分を愛することができず、自分は輝きに満ちた素晴らしい存在でなければならないと思い込んでいるふしがあります。
ただ現実にはそれほどまでに輝きに満ちた人が存在したとして、そういう人は往々にして心が満たされているので、過度な賞賛など必要としないものです。
そして本当に心が満たされているのなら、表面上のことより、むしろ物事の本質を見極めるほうに心を砕くのではないでしょうか。
逆に必要以上に自分を大きく見せることに腐心してしまうと結果的に偽りの仮面を被らなければいけなくなり、ついには嘘を嘘で塗り固めたような鎧を身につけるしかなくなってしまいます。
最近わたしは、そういう人たちを見ると、哀れに思えてなりません。
どうして等身大の自分ではいけないのでしょう。虚構の世界に生き、たとえそこで多くの賞賛や賛同を得られたとして、それは砂漠の中の幻のようなもので、この手で、そして心で触れることなど出来ないものなのに。
もしかすると周囲の人たちもそんなあなたの本質に薄々勘づいているかもそれません。そしてあえてその嘘に気づかない振りをしてくれているのかもしれません。
果たしてそういった行為自体が偽善ではないと自信を持って言える人がどれだけいるというのでしょう。
しかし、おそらくほとんどの人は気がつかないのかもしれません。
なぜなら、他人のブログの記事や画像をそれほど熱心に見る人は少ないからです。しかしたまたまその人のある記事をみて、単なる勘違いではなく、明らかに作為的な嘘に気がついてしまった時、それにコメントしている方々の反応までもが虚しく響いてしまうのです。
自分に嘘はつきたくない
ありのままの自分を愛せない人は、嘘で塗り固められた牢獄のような場所から自分を解放してあげるべきです。
今日は日中ぽかぽか陽気だったので、普段、温室や室内に取り込んでいる鉢やプランターを陽だまりの中に移動させました。
わたしもほんの少し目を閉じて、日差しの暖かさや風の音や、鳥の囀り、風に揺れる花の声に耳を傾けてみました。
すると、どこからともなく、小人がやってきて耳元で囁いてきました。
「いつもお天道様がみているよ」
見るからに美味しそうなものに賞賛は惜しまない。けれど余計な嘘をついて自分を大きく見せようとする人の心まで理解しようとは思いません。
自然体でいきましょう。
ピンク色のアネモネが微笑んでいました。花言葉は「待ち望む」ですって。
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