“いい人“とは?
自分の“良心や倫理観“に照らして“良いこと“をなそうとすることは、人として大切な心掛け。
しかし現実には…“良心や倫理観“を曇らせ、失い、周囲の人を著しく傷つけ、そして自分は全く反省しない・・・なんて人の所業が毎日のようにニュースやSNSを賑わしている。きっと“良心や倫理観“というものも、他のあらゆる営みと同様、磨き続けないと、簡単にエゴに乗っ取られ、歯止めを失ってしまうのだ。
また、“良いこと“をした結果、他人から「あの人はいい人ね」と思われることと、自分が意図的に「いい人」であろうとする、「いい人」と思われたいのは全く異なる。
自分が「いい人」であろうとする、「いい人」と思われたいのは、ちょっと穿った見方をすると、“他人に悪く思われたくない“から“良いこと“をするようにも映り、その場合それは相手への愛ではない。むしろ「ほれぼれとする自分でなければ愛せない」ナルシシズムであり、また“「いい人」でいなければ、周囲からつまはじきにされるかもしれないという“恐れの表れでもある。
またどんな人も程度の差こそあれ、このナルシシズムと恐れを持っていて、「自分は善人で、正義の側にいる」「私は悪くない」と思いがち。だからこそ、常に人はそういう生き物だという前提に立ってみることが大切なのだ。
たとえば、犯罪を犯す人でさえ、「自分は悪いことをしている」とは思っていない場合もある。人間の脳はどんな理屈をつけてでも、自己正当化しようとするのだから。
だからわたしは、『自分も決して例外ではない』と何度でも自分に問いかけることが、“真の誠実さ“ではないかと思っている。
そしてその上で、ナルシシズムを少しずつ脱し、また“本能としての恐れ“を保ちつつ、別の選択肢、別の引き出しを増やす努力を怠らない…これが人としての成熟を促し、幅を広げていくことだと思っている。
不完全だが、それもいい
ところで、自我という心の器が未熟でもろく、不快に耐える力が弱いと、人はとかく物事を「白か黒か」「善か悪か」「0か1か」などの二つに分けて捉えがちだ。
通常人は成長するにつれ、物事にはグレーの部分がかなり多いことを学ぶ。またこのグレーも、きれいなグラデーションではなくマーブル状になっている。
人間の成熟とは、わたしたちが生きている世界が非常に複雑であり、マーブル状なのだということを、経験を通じて学んでいくことであり、それこそが人生そのものなのかもしれない。
先日ルーシーグレイで入手して、写真を撮り忘れていた、カリブラコアカメレオンのダブルピンクイエロー。
この花は、つぼみの時は黄色で、咲き進むにつれ徐々にピンクへと花色が変化していく。ひとつひとつの花色の微妙なニュアンスの違いから、たったひと株で、まるで寄せ植えのようなさまざまな花の表情を楽しめる。
この花の色は何色とはっきり伝えることは出来ないけれど…それでいい。全てがはっきりしているから美しいとは限らない。むしろ歪だったり不完全だったり…“未完の美“という概念だってある。
フランスのルーブル美術館の見どころのひとつでもあるミロのヴィーナス。画像にはひとっ子1人写り込んでいないけれど、実際はかなりの人だかりだった。
この像の見どころは、『失われた両腕』だと言われている。発見されたときにはすでに両腕ともに欠損しており、ヴィーナスの元のポーズは長年謎に包まれていた。
最新の研究の1つでは、ミロの片腕と思われる「リンゴを持つ腕」が見つかっていて、科学的な分析からも一致率が高いため、現在ではこれをもとに元来リンゴを持つポーズをしていたと考えることが一般的になりつつある。
ヴィーナスが持っていたリンゴはおそらく「不和の黄金のリンゴ」であり、ギリシャ神話の「パリスの審判」という話に登場する。リンゴをめぐって3人の女神ヘラ、アテネ、アフロディーテ(ヴィーナス)が争いを起こす話。すでに元来のポーズが解明されつつあるが、ポーズが分からずにいた両腕こそが、逆説的にミロのヴィーナスの魅力であったとも言える。
美しく信念のある表情で、ヴィーナスがなにを見つめていたのか?それぞれの視点から異なる物語を想像できるからこそ、ミロのヴィーナスは今もなお人の心を惹きつける。
ナルシシズムの誘惑からの脱却
「自分は善人で、正義の側にいる」と思っておきたいナルシシズムの誘惑は、どんな人にも起こりうること。また、過剰に自分を責めたり、自己否定から抜け出せないのも、実はこのナルシシズムの裏返し。
自分を善人に仕立て上げることもあれば、他人から反撃されるのが怖いため、自分を「ダメな方」に位置付けて、自分を攻撃し続けることもある。しかし、これは出方が違うだけで、根は同じ。
鉢植えの水遣りは足りなくても枯れるし、多過ぎれば蒸れて根腐れする。肥料は栄養にもなるが、与える時期を間違えるとこれまた本体を弱らせ、しまいには枯らす毒にもなる。
『無能な働き者は組織に最も害を与える』という諺があるように、一見好ましく見える「働き者」であっても、正しい判断力がないにも関わらず自分の独断で行動して、かえって周囲を混乱に陥れるなんてこともある。
この場合、いくらこの人に悪気がないからといって、それを見て見ぬふりをしていたとしたら周囲は疲弊するばかり。
たとえばそんな『無能な働き者』の所業を指摘したとしたら、それもその人の“批判や悪口“と捉えられてしまうのだろうか。
もし、そうだとしても、わたしは自分の良心に嘘をつきたくもないし、“いい人“と思われなくてもいいので、“指摘する“というわたしなりの“誠実さ“を貫き通したいと思う。
そして、それがわたしの『ナルシシズムの誘惑』に立ち向かうひとつの方法だと考えている。
今年何度目の開花だろうか。アストロフィツムの花が今回は双子で咲いてくれた。なんて神秘的で美しい花なんだろう。
アストロフィツムというサボテンは、上から見た形が星形であることから古典ギリシア語のastron(星)とphyton(植物)からついた名前。 最も女性的なサボテン、また、最もエレガントなサボテンとして人気が高い品種。
このサボテンの花言葉は「燃える心」「偉大」「暖かい心」「枯れない愛」。
この花は、日中限られた時間しか咲かないので、開花するタイミングを逃してしまうと、花姿を捉えることが出来なくなってしまう。それだけに、この貴重な機会を捉えることが出来ただけでも幸せを感じてしまう。
そしてこの美しい花を眺めていると、「自分をこよなく愛し、陶酔している人」にも見せてあげたくなる。このナルシストは、ギリシャ神話に登場する美少年で、自分を愛するあまり死んでしまった「ナルキッソス」が語源になったといわれている。
若くて美しい少年ナルキッソスは、傍若無人な振る舞いに怒った神様に呪いをかけられ、泉に映る自分の姿に恋焦がれながらやせ細って死んでいくというエピソードが有名。
このエピソードだけ見ても、思い込みほど愚かなことはないなと改めて思うのである。
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