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『もういい加減にしろ』と思うこと

何事もネタと考えてしまう気持ち悪さ

以前からずっと感じていることだが…わたしがSNS等の投稿をみて一番に感じる違和感…それが、『出会った場所や人をネタにしているような感覚だ。

Instagramやブログにあげられる写真の多くは、『こういうモノ・場所・人と関わりがある自分』を演出している感じがする。とりわけ“会った人との写真を投稿する行為“って、「こんな素敵な友人がいます」「こういう交友関係があります」なんてほとんどが“キラキラした自分アピール“のように見える。そういう自分自身も、たまにそんな意識が働いてしまったかもなんて、あとで気づいて反省することもある。

たまたまなのだが、近頃わたしの友人・知人でお子さんやお孫さんが生まれた、若しくはこれから出産を控えているなんて方がいたりして、人によっては何かお祝いを贈らなければなんて間柄だったりする。

しかし、基本的にはその当事者でない限り、あまり騒ぎたてないほうがいいと思っている。これはおめでたいことだけではなく、たとえば近しい人の病気のことなども含め、ともすれば“格好のネタ“になりそうなことでも、そこは相手が近ければ近いほど書きたい気持ちをグッと飲み込むということも、人として必要な心掛けではないかと考えるからである。

とはいえよほど嬉しかったり、特別なことだったりしたらその限りではないだろう。がしかし、そんなレアなことって誰かの一生の中でどれくらいあるかしらなんてわたしは思うほうなので、その手の投稿や画像や動画を見るたびに、『あーまた始まったよ』と心の中で舌打ちしてしまう。

その心は、“自分と一緒に映る人や何かをまるで自分のファッションの一部にしている“かのような気持ち悪さを感じてしまうからだろう。

病気や障害をネタにする人たち

わたしの義理妹は出産時、低酸素状態に陥ったことにより重い障害を持って生まれた。現在は障害者施設で暮らしている。だからというわけではないが、健常者が自らのブログ記事で病人や障害者について語るのをみると、他人の褌で相撲をとってもいるような違和感を強く感じてしまう。

少し前から障害者を取り上げて感動物語を仕立て上げることを「感動ポルノ」と言って批判する流れが広まってきている。

この言葉を最初に使い始めたと言われている形成不全症でコメディアン兼ジャーナリストのステラ・ヤング氏は、障害者が健常者を感動させるためにモノ化され消費されていると述べている。

障害者は健常者を感動させるためにいるわけではない。

そもそも、障害を持っていることが“特別なこと“という考え方自体がある種の偏見で、妹のように出産間際まで検診で何ら問題を指摘されることもなく育っていても、出産時の不測の事態によって脳生まひに陥るということだってある。また事故に遭うなどして手足を欠損し身体障害者になったり、病気の後遺症や、認知症が進んで障害者になるケースなどもある。

若い時に“ふつう“に出来たことでも、加齢と共に出来なくなってくることもある。そう考えると、いまは健常者でもいつ病人や障害者になるのか分からないのだ。

なのにドラマやブログでは、不治の病に侵された病人や障害者が登場すれば、必ず何かが起きて、感動ストーリーが繰り広げられている。

そして、そんな感動ポルノを見てどれほど外野が分かったつもりになろうと、老老介護の末、配偶者や身内に手を掛けてしまう痛ましい事件や生活苦に耐えきれず自殺なんてニュースはあとを絶たない。

つまるところ、病人や障害者やその他恵まれない人たちも、意識するにせよしないにせよ健常者が勝手にネタとして取り上げて、モノのように消費しているにすぎないのだ。

死をネタにする人たち

今のところこの世に生まれたすべての生命は「死」から逃れることが出来ない。

先日、人伝てにある知人が亡くなったことを知ったのだが、このことを通じて「死」について改めて何か書いてみようかと思った。しかし、少ししてからはっとした。『わたしは、その人の死をブログのネタにしようとしている』と、そう思い当たって、そんな自分にぞっとした。自分が気持ち悪く、おぞましくなって、もちろんそのことについて書きもしなかった。

とそんな時、ある方のペットが亡くなったことについて、その当事者でもなく身内でもなく、ペット愛好家でもないただのブロ友レベルの方が、そのことを題材に、おとぎ話のようなフィクションを綴っていた。そしてその記事のコメント欄には、当然のごとく、お悔やみのコメントが投稿されているのだけれど、なんだか変じゃありませんか?

自分が飼ってもいないペットの死を垢の他人があれこれ言うことも、お悔やみの言葉をする方々も、これってまるで芸能人の訃報に接して、その方のお通夜で涙ながらにコメントする、これまた仕事で少し関わった程度の芸能人たちとなんら変わりないというか、そういう茶番を見せられているようなものではないのか。

結局、そういう投稿をする人も、その投稿にコメントする人も、ある方のペットの死をネタに“共感性に満ちた心優しい自分“を演じているだけのように見える。

わたし自身も少なからず身に覚えがあり、しかし一方で、人間は社会的生き物で、意思疎通を大事にして生き延びてきた分、何かを感じたら「表現したい」と思う欲求や、「表現を通して承認されたい」という欲求は普遍的にあることも否定することは出来ない。

だがしかし、そうであったとしても、扱う題材と道義的な問題は、常に天秤にかけて考えるべきなのではないかと思った。

今日もお読みいただき、ありがとうございます。

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