BF1 お勧め順路の続き
今回も太字の部分の作品を中心にお届けします。
ゴヤの家「黒い絵」→7つの「ヒマワリ」→民衆を導く自由の女神→笛を吹く少年→セーヌ川の舟遊び→落ち穂拾い→オフィーリア→接吻→皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠→叫び
そしてこのあと登場するクリムトについて、以前投稿した記事があったことを思い出しました。
なるほどあの時はこんなことを考えていたのか?などと懐かしい思いがしました。そして面倒と思う時があっても毎日更新することの大切さを実感しました。
また本物の芸術とは、それを生み出した作者がこの世を去ったあとも延々と生き続け、この地球の大切な遺産として受け継がれていくに違いありません。
接吻
本作は、オーストリア美術史上最高傑作と言われ、クリムトの黄金時代を代表する作品であり、最も有名な作品です。またウィーン分離派、ウィーン・アール・ヌーヴォーの代表的な作品でもあります。
1908年の総合芸術展「クンストシャウ」(ウィーン)で大好評を博し、展覧会終了と同時にオーストリア政府に買い上げられて以降、今までに一度も国外に持ち出されたことがありません。おそらく今後も日本に来ることはないでしょう。
この絵をみた皆さんはどのような感想を持たれるでしょうか?
この誰も近づけない2人だけの世界で抱き合う恋人たちのモデルはクリムトとその永遠の恋人であったエミーリエだと言われています。
ただ実際この2人の関係性は常人の理解を超えたところにありました。
クリムトのアトリエには常に何人もの女性モデルが半裸で生活していて、そのすべてのモデルと関係を持っていて、非嫡出子も十数人いたと言われています。
そんなクリムトと結婚するでもなく、半裸の女たちに加わるでもなく、27年も連れ添った女性がエミーリエ。
2人は毎年夏の短いバカンスの間だけを一緒に過ごしていたといわれています。
とろけるような官能性と危うさが同居した恋人たち。黄金に輝く色彩は2人を包む眩しい夏の夕暮れのようにも見えます。
残念ながら人の命も愛も永遠ではありません。でもだからこそ、その愛し合う瞬間は美しい。わたしはなぜかいつもこの絵を見ると胸が締めつけられるようなせつない気持ちになります。
大塚国際美術館では他にもこんな作品が展示されています。
本作品は、クリムトの「黄金時代」後期における最も完成度の高い作品といわれています。クリムトによるブロッホ=バウアーの全身肖像画は2作品存在していますが、これは最初の作品で、一般的にはこちらのほうがよく知られています。
皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠
全長が10メートル近くもあるこの作品は、ルーヴル美術館のなかでももっとも大きな絵画作品のひとつです。できあがった作品を初めて見たナポレオンは「これは絵ではない、画面のなかに入れるようだ」と言ったといわれています。
作品中の戴冠式は、1804年12月にノートル・ダム大聖堂で行われました。画面に臨場感をもたせるために空間は実際よりも縮小されており、人物はほぼ等身大に措かれています。
参列者は実在の人物が描かれていますが、ダヴイッドはおもな人物の細部をリアルに再現するため、衣装を借りたり、頭部をスケッチするなど習作を行ないました。画面中央の奥にある観覧席には実際には列席しなかったナポレオンの母の姿も見えます。その上の席には、スケッチするダヴイッド自身も措かれています。
ところで皆さんはナポレオンといえばこの絵のイメージをお持ちではないでしょうか?
ナポレオンの首席画家であったダヴイッドがナポレオンを描いた絵は数多くあるのですが、中でも有名なのは1801年作の馬に乗ったこのナポレオン像なのです。
これはナポレオンの英雄的なイメージをひときわ印象づける絵です。
ナポレオンは自分に似た絵を描いてほしいとは少しも思わなかったようで、肖像画は外面の顔かたちではなく、人格を表現しなけれならないと考えていたとか。
叫び
叫びは、ノルウェーの画家、エドヴァルド・ムンクが1893年に制作した作品です。
ムンク本人によって付けられたドイツ語の原題は「Der Schrei der Natur (自然の叫び)」。
これはムンクの代表作とも言える作品で、鑑賞者の不安を掻き立てる印象的な作風は、美術愛好家のみならず一般にもよく知られています。
ムンクは生涯を通して自身の孤独や恐怖、不安をテーマにした作品を多く残しています。これを彼は「フリーズ・オブ・ライフ」と称していて、そのうちのひとつとして制作されたのがこの叫びなのです。
というのも、彼は幼少期に母親と死別し、思春期には最愛の姉が肺結核により15歳の若さで亡くなるなど、身近な人の「死」に度々直面してきました。
そしてその不安を可視化した作品という点において、叫びは彼の作品の中でも群を抜いていると言えるでしょう。
本作はムンクが見た幻覚をもとに描かれたともいわれており、ムンクの日記にはその時の鮮明な体験が記されています。
私は二人の友人と一緒に道を歩いていた。日が暮れようとしていた。
突然、空が赤くなった。私は立ち止まり、疲れを感じ、柵によりかかった。
そのとき見た景色は、青黒いフィヨルドと町並みの上に炎のような血と舌が被さるような感じだった。
友人は気にせず歩いていたが、私は不安に襲われてその場に立ちすくんだ。
そして私は自然を通り抜けていく無限の叫び声を聞いた。
1892年1月22日に書かれたムンクの日記より
そして叫びを制作した後にも、作品の元となった体験について以下のように書き残しています。
ある夜、私が町を散歩していると、片側に町が見え、その下にフィヨルドがあった。
私は酷く疲れていた。
足を止めてフィヨルドのほうに目を向けると、太陽が沈みかかっていて、雲は血のような赤に染まりつつあった。
私は自然を通り抜けていく叫び声を感じた。
私は叫び声を聞いたように思えた。
私はこの絵で、実際の血のような色の雲を描いた。
その色味は悲鳴のようだった。
そしてこの絵は「叫び」になった。
ムンクの独白
そして、ここで重要なのは、叫んでいるのはこの人物ではなく、人物の周りを取り囲む「自然」だということです。
一見、頬に手を当てて叫んでいるようにも見えますが、よくよく見るとこの人物は、自然の叫びから逃れるために耳を塞いでいるように見受けられます。
また、人物自身も口を開けていることから、自然の叫びと自身の感情が共鳴している様子をムンクが表現したかったのだと考えられます。
ムンクがこの絵を発表した当初は、当時の評論家たちから酷評されましたが、後にその評価が一転し、絵画史に残る名作として知られるようになりました。この作品は現在、ムンク美術館に所蔵されています。
大塚国際美術館はその他の作品も展示されています。
作品を発表するたびに批判を浴びたムンクでしたが、徐々に愛好者が増え、世間からも認められるようになっていき、精神的な不安や葛藤を抱えたままではありますが、思春期、マドンナなど代表作となる作品を次々に発表、画家としてキャリアを積みました。
しかし、幼少期から生や死への不安を抱えたままだったムンクに事件が起きます。精神病の妹の入院で「自分も精神を病むのでは」という不安に陥ったり、医師であった弟の死に苦しむなど精神的に不安定になっていた矢先、恋人との別れ話のもつれから銃の暴発が起き、ムンクは左手指の一部を失う大怪我をしてしまったのです。この事件もきっかけの1つとなったのでしょう、彼の精神不安は確定的なものとなり、神経症やアルコール依存症のため入院することに。
退院したムンクは、自身の病気や回復の経験から作品の画風や主題に変化を見せるようになり、これまでとは違う、見たままの景色や人物、明るく健康的な作品なども手がけるようになりました。
太陽は1911年から1916年にかけて制作された晩年の作品で、高さ450cm、横幅772cmとムンクの作品の中では圧倒的に大きく、現代壁画の最高傑作とまで言われています。
以前ムンク展に行ったとき、この壁画の存在を知り、いつかオスロに行ってみたいと思ったものです。
そして彼の晩年は比較的安定していたようで、これまでの功績が認められノルウェーやフランスから勲章を受け、80才でその生涯の幕を下ろしました。
叫びのイメージばかりが先行し、不安や葛藤を抱えた画家という印象が強いムンクですが、意外や意外、晩年は案外穏やかに暮らしていたことを知り、なんとなく救われた気持ちになったのはきっとわたしだけではないと思います。
今日のほっこり
実は四国旅行から帰宅する当日、東京住まいの娘が、ニアを連れて帰宅することになっていました。その後一日だけお預かりしたので、その時久しぶりに海に散歩に行きました。
おかげさまでニアも無事パピィを卒業してますますたくましく、女子ですがとても男前なわんこに成長しているようです。
海岸に散歩にいけば、波をものともせず果敢にアタックしようとします。わたしは、こんなニアがとても頼もしく可愛くて仕方がありません。
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