初心忘るべからず
初心忘るべからず
誰もが知るこのことわざ。これは能の大成者、世阿弥の「花鏡」の中の一節である。
元々は、能楽で若い頃に学んだ芸や、その当時の未熟だったこと、また、時期時期での初めての経験を忘れてはいけないという教えだが、転じて一般に、習い始めたころの、謙虚なはりつめた気持ちを常に失ってはならない、また、最初に思いたった一念を忘れてはいけないの意味となった。
やはり何かしらの道を極めた人の言葉は、時代を超えて人の心の道標になる。
その彼はまた自身の芸の極意をまとめた著書『風姿花伝』の中で『珍しきが花』についてこんなことを述べている。
そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時得てめずらしゆゑに、もてあそぶなり。
申楽も、人の心にめずらしきと知るところすなはち面白きこころなり。花と、面白きと、めずらしきと、これに三つは同じ心なり。
(花と言えば、四季折々の花がある。季節が変わって咲く花であるからこそ、その花は珍しいものとなり、人々も喜ぶ。
能も同じである。人にとって新しいものであるからこそ、おもしろいと感じる。つまり「花」と「おもしろい」と「珍しさ」は同じことなのだ。)
「風姿花伝」花傳第七 別紙口傳より
ここでは、、、練習もせず人気ばかりで、その場の評価をとろうとしているそんな芸能の世界で、伝統を継ぐだけではなく自分を入れて工夫する。という人気商売の世界を生きる極意を示している。
いつだって完璧ではないことを忘れず努力したい。
“初心忘るべからず“も、“珍しきが花“も、物事の新しい切り口や捉え方、創造することの大切さ、いかに今を壊して超えていくかを考えていく、、、そんなこの世を生きていく上での心の持ちようを表しているのではないか。
そして常に『自分が正解と思わない』自分自身をも客観視する姿勢を持ち続けたい。
あのダーウィンも「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」
と述べている。
今あるものをどうリニューアルしていくかが大切なのではないだろうか。
狂い咲き
わが家のパッションフルーツ、何故か今昼夜を問わず咲き始めている。
おそらく、このところの急激な気温の変化に体内時計に異変をきたしているのだろう。と同時に、生き急ぐならぬ冬将軍に捕まる前に咲き急いでいるのだ。
ここにも『珍しきが花』が咲く。
ガーデニングとは、草木の手入れ、野菜作りなど、趣味としての庭仕事をさす。そして園芸とは、農業の一部門。果樹・野菜・草花類の栽培と造園技術との総称である。
どんな趣味であれ、その道を極めようとすれば、必ず険しい道のりが待っている。しかし、その遥か彼方への歩みの先には、その道を極めた者でしか見ることの出来ない景色が待ち受けている。
どんな言葉を尽くしても、誰かの感動を奪うことなど出来やしない。
その人の感動はその人だけもの。そして他人と比較出来るものでもない。
もし花が咲かなかったとして、誰がその植物のせいだといえるのだろう。その原因は、タネにあるのではない。多かれ少なかれ、それを育てる人の心に起因するもの。
わが家のコキアもただただ美しいばかりだ。
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