昨日から再開した糠床。説明書には捨て漬けは不要となっていたけれど、あればあったできっと発酵が早まるに違いない。
画像でみるとなんじゃこりゃって感じだが、糠に触れていると子供の頃砂場で泥まんじゅうを作って遊んだことを思い出した。
今は簡単に素敵な完成品をを手にすることが出来るけれど、あえてその過程を楽しむスローライフ的な過ごし方も面白い。
それから本日はそろそろ旬が終わりになりつつあるきんかんの簡単はちみつ漬けを作った。
例の蜂蜜もこれで終了だ。
コロナ禍以前、わたしはパート代のほとんどを旅行に費やしていた。それぞれの国で何気なく入手したものが、あとになって結構価値あるものだと気づくことも多々ある。
去年あんなに頑張って手に入れたLVの財布も箱に入ったままだ。
今はNY旅行のついでに行ったナイアガラの滝ツアーの帰りに立ち寄ったアウトレットで入手したあまりお見かけしたことのない coachの型押しの財布を使っている。
その薄さ加減が妙に使い易くてなかなか他に移行出来ないのだ。
そういえばこの前、スナップを直したGUCCIの財布もまだ保存袋からも出していない。
どんなに立派なものも、それぞれ使いどころが違ったりするので、今はみんな自粛という空気の中で静かに息をひそめて次の出番を待っているのかもしれない。
今でこそ丸くなった気がするが、以前はかなりとんがっていた時期があった。
その人はバリキャリで、毎週のように出張で海外に出掛けていた。コロナ禍の少し前には頻繁に武漢に行ったりもしていた。
ある時その人から、久しぶりにメールが届いて、「今は、日常会話に事欠くこともなくなり、言葉が通じる楽しさを噛みしめています」なんてひとことが添えられていた。
まあなんてことない話なんだが、その時のわたしはやけにイラッとしていて、
「だから何?中国語出来る自分凄いってドヤ顔してるのかしら?」
なんてかなり酷い毒を吐いた。当然その人からメールが来ることは二度となかった。
同じ言葉でも、それを受け止める側の精神状態によって大きく意味が変わってしまうことがある。
あの時のわたしは本当に不幸のどん底だったのだろう。
と今は他人事のように話せるようになっている。
さて、わたしの酷い暴言でそのひととの交流は途絶えてしまった。もちろん、暴言を吐いたことは申し訳なく思っている。しかし結果的に交流が途絶えたことは良かったと思っている。
わたしはそのひとのように、バリバリ活躍出来るほどのスペックもないし、立場も違うし、、、はっきり言ってそういうひとに自分を合わせてまで付き合いたくはなかったのだ。
ひとにはそれぞれ分相応というものがある。そしてそれもその時々で移り変わる。1年前にパリで手に入れた財布、、、あの時は欲しくて仕方なかったのに、今はまだ使う気分になれない。
このコロナ禍は、わたしの価値観をも変えてしまったのかもしれない。
使い心地のいいものは大体値が張るのはお約束だが、値が張るからといって自分にしっくりくるとは限らない。
それは糠床を育てる過程にも似て、、、自分がこれと思う地点にたどり着くまでにはまだまだいろいろな試行錯誤が必要なのだ。
そしてその試行錯誤なしに簡単に手入れられるものなら要らないのかもしれない。
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