感覚はあざむかない。判断があざむくのだ。
つい先日までの暑さが嘘だったのかと思えるぐらいのスピードで秋が深まっている。こんな時は物思いに耽るのもいいものだ。
一見突然起きたような出来事も、実は以前から心に燻っていたことが、ある時を境に噴出したにすぎない。
昨日、かなり久しぶりにゲーテの『ファウスト』の名言を思い出したところから、今度は彼の別な名言が再びこころに引き寄せられた。
感覚はあざむかない。判断があざむくのだ。
ゲーテ 「格言と反省」より
とつぜん話は変わるが、わたしのいた高校は地元ではそこそこ名の知れた進学校だった。今は男女共学になっているが当時は女子校で、特に合唱の世界では、全国大会の金賞の常連校でその名を知らぬ者はいないくらいの強豪校だ。
そんな学校の先輩に当時伝説になっているような方がいらした。
その方は現役で東大の理3に入るという、、、おそらく後にも先にもそんな人はこの学校にも現れないであろうというぐらいの人だった。そのあまりの凄さに「おばけ」というあまり褒められないあだ名がついたぐらい。
全国模試では常にトップクラス、強豪の合唱部ではピアノ伴奏を担当、スポーツも万能で、陸上部の助っ人をすれば短距離で県大会でも1位。とにかく何をするにも手を抜かない人だったらしい。
そして、凡人のわたしには到底信じらない話なのだが、数学の問題の解き方が特殊すぎた。
彼女の場合、まず答えが先に浮かんでくるらしい。なのでそれに合わせて証明をしていくという思考回路だったとか。
そして、この心を知ろうと考えたときに、あのゲーテの格言が生きてくる。
つまり、勉学もある一定以上を極めると、理論を超え、閃きや感覚が優先するのだ。
人は自身のレベルで人々を賞賛する。
そしてゲーテはこんなことも仰っていた。
人は自身のレベルで人々を賞賛する。
ゲーテ
これでいろいろ腑に落ちた。言い換えればこれは、類は友を呼ぶということで、性別や年齢や立場を超えても、分かり合える人は分かりあえるし、何年近くいたとしても、分かりあえない人もいる。見ている景色が違う者同士を同じ土俵にのせてみたところで、それぞれが一人相撲になるのがオチだ。
よく人が誰かを褒めるときに、「お人柄ですね」なんて言うけれど、そもそも人柄って何?
人柄を辞書で調べると、「人の品格、人の性質」とある。
そして品格とは、モノに対しても使うけれど、この場合はヒトの場合を考えてみると、「人の品の良し悪し、すぐれた気品」となる。
はて?そう考えると、、、この世にそんな大勢の “お人柄“のよろしいお方がいるであろうか?、、、甚だ疑問である。
どこまでもヒネたわたしは、そんな“お人柄のよろしい方“も、“そういう褒め言葉を使う方“にも、そもそも相手の品格を云々するほどの品格を持ち合わせているのかと問いたい。
当然ながら未熟なわたしは、自分が品格を持ち合わせているとは思っていないし、そういう世界の話にもあまり興味もない。
褒め言葉の安売り
そして時代に逆行しているのは十分承知の助だが、“褒め言葉の安売り“はしたくない。
なぜなら、リアルな人間関係なら多少妥協も必要だろうが、少なくともSNS上でなら、誰に阿る必要があろうか。
もちろん本当に賞賛したい人や事柄には惜しみなく拍手を送りたいが、自分がそれほどでもないと思ったことまで賞賛する必要はないだろう。
スタンディングオベーションは強制されてするものではない。
言葉にも断捨離が必要かも。
言葉の断捨離と言って、、、真っ先に思い浮かんだのが、和歌や俳句の世界。
今話題の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の登場人物のひとり、源実朝は優れた歌人としても知られている。
わたしはこの彼の真っ直ぐな心が表現された歌が好き。
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
(山が裂け、海が干上がってしまうような天変地異が起きる世になったとしても、私の忠誠心は二心なく、ただ一筋に君に捧げて、欺く心はありません)
源実朝
これは実朝が後鳥羽上皇に宛てて詠んだ歌だ。
この三十一文字に、言葉と心がぎゅっと凝縮されている。
なんと素晴らしい“言葉の断捨離“だろうか。
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