私が思い描く理想の大人の在り方として、江戸っ子的な”粋(イキ)”を無意識に好んでいるように思う。
”粋”の対義語として”野暮“という言葉がある。これはなんとなくわかり易いが、”粋”というのは、正確に言うと”野暮でないこと“とイコールではないのが味噌。
”粋”を通り越すと何になるかご存知だろうか?それは江戸っ子的にいうと”気障(キザ)”になるらしい。
つまり、整いすぎていることは、江戸っ子的に言えば、ちょいと嫌味で不快に映る。だから本当の意味での”粋”とは、”気障”の一歩手前、ひとかけらの”野暮ったさ”を残すところにある。
そういった感覚は、日本人特有のものだと思われる。十五夜と十三夜の月を対に見立てる感覚。つまり、満月と少しだけ欠けた月を対比させ、そのどちらも美しいと感じる感性。
完璧はつまらない。頂点に立てばあとはその地位に必死でしがみつくか落ちるだけだ。ほんの少し余力を残した立ち位置のほうがアソビがあっていい。
そう、アソビとは、こころのゆとりみたいなものだ。
神無月の頃、栗栖野というところを通り過ぎてとある山里に分け行ったところ、静かなる中にも人の住む気配を感じ、そのあわれさに感じ入っていた作者(吉田兼好)だったが、大きなみかんの木がなっているところを頑丈に囲ってあるのを見て、少し興醒めして、この木がなかったらよかったのにと思った。
こんな人里離れた山奥にまで、みかん泥棒が出没するのだろうか?それともこれは自分の物だとアピールする家主のこころなのか?
いずれにせよ、”あわれ”に感じ入っていた作者の気持ちに水を差すような光景には同情を禁じ得ない。
”粋”とは、こういった何かと何かを隔てる囲いを取っ払うことから始まるのではないだろうか?
多少野暮でもいい。むしろどんな制約があったとしてもその制約の中で、自分らしく生きることは可能で、目に見える囲いよりも、自分のこころを解放することのほうが重要なのである。
誰しも格好よく年をとりたいと願うだろう。でもそれは、”気障な大人”になることではない。
”粋でいなせな大人”になること。多少のトラブルも受け流し笑いに変えられるような、そんなサッパリと清々しい大人になりたい。
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