苦い記憶
先日、旭川、富良野、帯広から道東の旅の話をしたばかりだが、なんとなく心にもやもやしたものが燻っている。
というのも、あの時の記憶がふいに蘇ってきたから。
高知から観光列車に乗り琴平で降り、その足で夕方から金比羅さん詣をした時のこと。
ある方がわたしたちの旅を嘲笑うかのような『夕方には宿に行きましょう。自分なら金比羅山に一日滞在します笑』という趣旨のコメントをしてきたこと。
9月のノロッコ号もそうだが、あの時乗車した四国まんなか千年ものがたりも、かなり人気の観光列車で、大手旅行会社が高額なパックツアーに組み込んでいる都合上、フリーで乗車すること自体かなり難易度の高いものだった。
故にあの四国の旅は、鉄オタである旅友のこだわりがたくさん詰まったわたしたちにとって唯一無二の旅。
世の神社仏閣巡り好きな方に言わせたら、とんでもない話かもしれないが、わたしたちにとっては、たまたま観光列車の到着した場所が琴平だったというだけ。
そしてあの時、駅から着いたその足で、無事到着したことを金比羅さんに報告すればそれで十分だったのだ。
たとえどんなに風変わりだったとしても、己の身銭を切り、誰に迷惑を掛けた訳でもない旅を…一体誰にわたしたちを揶揄する権利があるというのか。
こんなことを書いていると、『やだぁーまだそんなこと根に持ってるの?なんて心の狭い人』なんて思う大人な方もいらっしゃるだろうが、自分でいちから手配して分刻みのスケジュールを作って苦労した旅ならば尚更、そういう旅にまつわる全てのことはずっと鮮明に覚えているもの。そして誰にだって踏まれたくない地雷のひとつやふたつあるのではないだろうか。
写真を撮りすぎると思い出が薄れていく?
さて今回なぜ唐突に苦い記憶が甦ってきたのか?これは読者の問題というより、ブログを始めてからの自分の旅のあり方が少し変わってきていることに対する苛立ちなのかもしれない。
コロナ禍以降、たまたまブログを始め、ミラーレス一眼を購入したということもあるが、以前と比べて格段に写真を撮る回数が増えてきている。
今回の旅でも行く先々で写真や動画を撮っていたのだが、以前はあくまで旅の記録として残す感覚に近かったのに比べると、いつの間にか映えを意識するようになっていて、構図がしっくりこないと何回か撮り直したり。
そんなふうに自然とSNSを意識してしまっている自分に、『わたしは何の為に旅をしているの?』と、どこか目的を履き違えるているような疲れや息苦しさを感じている。
実はこれ、ご存知の方も多いかもしれないが、アメリカの心理学者リンダ・ヘンケルさんが発表した「写真撮影減殺効果」というものに関係しているようだ。ざっくり言うとこれ、『写真を撮らないより撮った方が内容を忘れる』ということ。
ヘンケル氏率いる研究チームは、ベラルミーノ博物館のツアーに学生を参加させ、写真を撮りながら見学する学生と、ただ単に見学だけをする学生に分け、いくつかの展示品を覚えておくよう指示を与えた。
翌日、指定した展示品に関する記憶を調べると、写真を撮影していた学生の方が、見学だけしていた学生に比べて、対象物に関する認識が正確さを欠いていた。
ヘンケル氏はこの現象を写真撮影減殺効果と名付けた。
この実験ではさらに、撮影と記憶に関する別の発見もあった。
展示品を撮影した学生のうち、被写体の特定の部分をズームアップして撮影した学生は、ズームした部分だけではなく、写真のフレームに収まらない部分についての記憶も残っていたという。
ヘンケル氏は「こうした結果は『心の眼』と『カメラの眼』が同じではないことを示している」と述べる。
写真は何かを記憶する助けにはなるが、それはズームアップ撮影のような、じっくり時間をかけて対象物を見直しを行った場合のみで、写真を過剰に撮影すると鑑賞がおろそかになる可能性を指摘している。
また、ヘンケル氏は「個人の思い出のためにデジタル写真を撮っても、整理していなければ、多くの人は写真を見直したり思い出す気もなくなることを、調査結果を示している。
記録でなく記憶にとどめるには、写真を撮りためることよりも、撮った写真を眼にする機会を持つ必要がある」と述べている。
米フェアフィールド大学の心理学者、リンダ・ヘンケル氏の研究より
言われてみれば確かにそうなのだ。今回カヌーツアーで相当数の写真や動画を撮りまくったが、それが可能となったのはガイドさんがしっかり舵を取ってくれて、自分は休み休み進むことが出来たから。
しかしこれ、わたしと旅友2人で漕がなければ全く前に進まないカヤック(西表島)の時は、撮影なんてほとんど無理だった。
だがしかし、自分たちのチカラでオールを漕ぎながら肉眼で観た景色と、ファインダー越しに見た景色とでは心に残る記憶の密度が格段に違ってくる。
そして今回の人生初の乗馬体験も然り。少しでも手綱を離す余裕などなく道草を喰うお馬さんの一挙手一投足を見ていなければ、振り落とされるリスクもなきにしもあらずなのだからカメラなど構えている場合ではない。
そういう意味で、碌な写真も載せられない誰かの乗馬体験など読んでみたところで、『だから何』って話になってしまうかもしれないが、旅人本人にとってみるとそういった画像や映像や言葉で上手く伝わらない体験こそが本当の旅の醍醐味と感じる部分なのだ。
ヘンケル氏は「人々は何かというとすぐにカメラを取り出しては、ほとんど何も考えずにシャッターを切っている。実際に自分が体験していることを記憶することを忘れるほどに。」と述べ、フェイスブックやツイッターといったソーシャルネットワークで瞬時に写真を共有することに慣れている今の社会に警告を鳴らしている。
今のわたしはややもすれば、本来旅の記録を残す“手段“にすぎなかった『映像や画像』がいつのまにか“目的“となって実際に体験し、心に焼き付けることをなおざりにしてはいなかったか?
わたしの憧れの旅人はなんと言っても、わが母校の大先輩でもある、かつてバックパッカーのバイブルとも言われた『深夜特急』の著者・沢木耕太郎さん。
そんな彼が紀行文についてこんなことを語っていた。
『紀行文はガイドブック的な役割を担うものと、旅をする心を何か刺激するものと、きっと2つに分かれるんじゃないかと思う。ガイドブックを欲しがる人にとっては、主人公が具体的にどう旅をしていったかよりも外界をどのように感じ取ったかが描かれている『深夜特急』は何の役にも立たない本だと思うんだよね。『深夜特急』が今もポツポツと読んでもらえているとすれば、読む人たちは彼が感受した世界を一緒に感じ取ったうえで、自分も旅をしてみたいと思ってくださるんでしょう」
わたしは、ただ旅が好き。そしていま流行りの自己肯定感を高めたいとか、承認欲求とかそういうことにはほとんど興味がない。むしろそういったことにこだわる呪縛から解放される為に旅をしたいと思うのだ。
そしてブログに載せる旅のエピソードも、こうでなくてはいけないなんて“きまり“など無いだろう。
あまりに過度なマニュアル通りの旅を求めてしまうと…ガイドブック片手に、どこからか見栄えのいい画像や映像を引っ張ってきて、『〇〇行ってきました。素敵な景色を眺めて、美味しい食事とお酒を楽しみました♪』なんていかにも巧妙に作られた架空の旅話に騙されて、うっかりイイねしてしまってるなんてことになりかねない。
どんなに時代が変わろうと、『百聞は一見にしかず』は永遠の真理。
自分でほとんど料理をしない人がどんなうんちくを垂れようとそれを100%信用することも出来ないし、何かに夢中になって取り組んだ経験のない人に、オタのココロを理解することは出来ないのだ。
ファイダー越しに見える世界も…所詮レンズというフィルターを通してみえる世界にすぎないのだ。
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